阪神・淡路大震災から30年目の想い – 消防士として、そしてクリニック事務長として
あの日を振り返って
1995年1月17日、午前5時46分。突然の揺れが、多くの命と暮らしを奪った瞬間でした。当時、私は大阪府内の消防署で予防課員として勤務していました。大阪でも大きな揺れを感じましたが、神戸の惨状を知ったのは少し後のことでした。
残された者の葛藤

同僚たちが次々と神戸への応援出動を命じられていく中、私は署に残り、通常業務を担当することになりました。設備係という専門性が理由でしたが、テレビや無線で伝えられる被災地の状況を知るたびに、心が締め付けられる思いでした。
「なぜ自分は行けないのか」 「今、自分にできることは何なのか」
悔しさと無力感で眠れない夜を過ごしました。しかし、今思えば、誰かが署に残り、地域の安全を守る必要があったのも事実です。
29年目の今、考えること
あれから29年。私は消防署を早期退職し、クリニックで新しい仕事に携わっています。立場は変われど、人の命と向き合う仕事に従事していることに変わりはありません。
震災当時の経験は、私に大切なことを教えてくれました:
- どんな立場でも、その人にしかできない役割がある
- 目の前の職務を全うすることも、大きな社会貢献になる
- 「何もできない」と感じる時こそ、自分の役割を見つめ直す機会
新しい使命とともに

現在、クリニックの事務長として働く中で、また違った形で人々の人生に関わっています。消防士時代とは異なる方法で、しかし同じように、人々の希望や未来を支える仕事に携わることができています。
あの日の無力感は、今では「自分にできることを精一杯やる」という決意に変わりました。災害時の活動は、現場に行くことだけではありません。それぞれの持ち場で、それぞれの役割を果たすことが、社会を支えることにつながるのだと信じています。
おわりに
1月17日。この日は私にとって、自分の役割について深く考える日となっています。消防士としても、クリニック事務長としても、「誰かのために」という思いは変わりません。
今日も、目の前の患者さんとその未来のために、私にできることを精一杯させていただきたいと思います。
そして、阪神淡路大震災で犠牲になられた6,434名の方々に、心からご冥福をお祈りいたします。あの日、助けることができなかった命があること。それは30年経った今でも、消防官として胸に深く刻まれています。
これからも、一人でも多くの命を守れるよう、今の私にできることを、日々積み重ねていきたいと思います。
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